2008年8月4日月曜日

傷つきやすさと繊細さ

傷つきやすいということは、それは一つの才能だと思う。

世の中には、少々のことで傷つかなさそうな人もいて
(本当のところは本人にしか分らないけれど)
そういう人たちと、傷つきやすく繊細な人たちの資質とか才能は、
明らかに違うところにあると思う。

傷つきやすい人たちは、自分が傷つきやすいということを劣等感にしてしまい、
いろいろなことを内面に秘めたまま、悪循環に陥りやすい。

なぜかといえば、一般常識的に、大人は傷つきやすくてはいけない、
ということになっているから。

でも、感情を感じないようにしていると、感情は行き場がなくなり、出口も見失い、
最終的には心も体も凍らせてしまう。感情は、体の感覚と、とても深く繋がっている。

感情を自分から解放してあげる(もしくは自分を感情から解放するのか)には、
思い切りよく、気が済むまで(?)、感じきってあげるしかない、と思う。

子供は皆、とても繊細で傷つきやすく泣いてばかりいるのに、なぜか逞しいのは
そういう術を知っているから?

さらに
感情よりは、理性とか計算とか、アタマを使って生きたほうが一見、得に見える、
そんな時代は終わりつつある。力の強いもの、スピードの速いもの、の限界。

その代わり
今まで力で押さえつけられていたもの、弱く見えていたもの、
スピードの遅いもの、 それらがじわじわと浸透し、台頭し(!?)、
すべてを包み込みはじめている。

朝陽に感動したり、流れる雲に想いを馳せたり、綺麗な夕焼けに切なくなったり、
夜には本を読んで泣いてみたり、たまにはそれだけで一日を終えてみても良い。

自分のなかの ”小さな自分” の存在を感じること。
その ”小さな自分” のいろいろを、
きちんとTake care してあげることが大切だと思う。

傷つきやすさは、きっとダイヤの原石?
かなり言い尽くされてることだけれど、なぜか今日の私の腑に落ちる。

本当のことを言えば、傷つきやすさに執着することは、人間のエゴだとも思う。

ちっぽけな自分の心が何を感じていようが、それとは関係なく
山や海や森や樹や岩や砂は、いつもそのままで美しい。

木々のざわめきに耳を澄ます繊細な感性と、
誰かから予期せぬ悪意をぶつけられて傷つく心、
もしくはあらかじめそうならないように注意深く気を配る神経とは、
なんとなく似ているようで、実は全く違うものなのかもしれない。

自然の恩恵を受けるのは、人間の心だけじゃないし、生きている限りどの瞬間も、
私たちは自然の美しさを味わっているはずで。

どこかの誰かの一言で「傷ついた」と感じる気持ちは、
自分が勝手に創り上げた幻想だったり、
自分にとって都合のよい思考の習慣の結果だったり。

ただ、そういうエゴ的観点(?)で考えれば、

”出来る”自分だけじゃなくて、”出来ない”自分も認めてあげることによって、
劣等感などという無意味な幻想も、自分次第でポジティブなものに変えられる。
諦めないで挑戦し続ければ、人生の可能性は無数にあるってこと、が分る。


自分のことを一人前の大人だと思うのなら、まず最初は、傷つくくことも
傷つかないことも 自分で選択できるようになりたい。
そういう意味で、感情をコントロールする理性は本当の知性。

何が起ころうとも多少のことではジタバタせず、流れに身を任せ、
ただただ内面も外見も平和で幸福に在りたい。

そして次に、周囲の人間や環境に適応してみようとしたいし、
そうしなければいけないから、責任あるから、という理由ではなく、
自分の意思による行動は必ず現実に影響し、物理的な帰結を見る、
というイメージを持って、自ら周囲に働きかけたい。

One step at a day. 少しずつ少しずつ。

1 件のコメント:

aladybug@MG さんのコメント...

小学校の当時の担任の先生が[20世紀には水も空気もお金で買う時代がやってきます。その時君たちは、大人になっているでしょう]自分を想像してこの本を読んでみて下さいと紹介された本が{21世紀を生きる君達へ}司馬遼太郎著者記憶が正しければ…(苦笑)当時の私は、未だ庭先には井戸水が在り、先生の言っている意味が理解出来ませんでした。何気なく本屋さんに立ち寄った時に、偶々見付けて購入したのですが、小学生にもしっかりとわかるように漢字も少なくふりがなも符ってあり、文章も分かりやすく書かれていました。印象的だった一節は、もし君が転んで痛い想いをしたなら、友達が転んだ時に痛かっただろうと、想像力を働かせて下さい。と言うのが有ったように覚えています。今、大人と云われる歳になった私はその頃には感じられなかった遠い未来の自分のままだと、情けなくなったりする事が多々あります(苦笑)。そんな私ですが、物も足りインスタントで過程を省略してしまう生活の中で私が今、日々感じるのは、物が高価であるとか金銭価値より、それを自分自身が美しいと感じるなら、金銭的に価値が少なくても私の選んだ物と云う価値になるとそんな風に思う。そして、他者が美しいと感じた物も、同等に等しい物なのだと想像して認めて受け留めて生きたい。自分自身や大切な人の為に、豪華なご飯では無くても美味しくて栄養がしっかり身体に入っていきますようにと手間をかけて作る事。車通勤を電車にし、歩く事にすると、普段見慣れた空は毎日違う表情を観せてくれる事に感謝出来る事。上手く表現出来ないですが、しっかり大人になれるようにと思う最近です。小学6年生の甥っ子が「おばちゃん、僕達が大人になる時には、地球がなくなって、宇宙に地球そつくりな星を造って住むようになるんだって、先生が言ってたよ!」と話ていました。私は、この子達が宇宙に住むなんて事にならないように、想像力をはたらかせ生きていく必要があると思うのです。その本は今甥っ子達の本棚にありますが、感想を聞いてみると「別に」(苦笑)何時か彼らが何かに迷ったり、いきづまった時に、読み想像力をはたらかせて何かを感じとって欲しい。生まれ育つ時代、環境が違うからこそ、年代の違う貴方と話す事で社会や人のせいにして生きては、ならないと考えさせられます。貴方は色々な気付きを与えてくれます。これからも、熱くお互いの想いをぶつけあえる存在でいて下さいね。