2008年8月31日日曜日

愛とか慈悲とか

愛されようなんて
1ミリも思っちゃいけない
本当に1ミリも思っちゃいけない
愛されようって思ったとたん
相手も同じことを思うから

愛されようって思ったとたんに
人間は破滅に向かう
愛されたい病は瞬時に伝染する
心は無駄に傷つくし
自然は破壊される

人生は
愛して愛して死ぬまで愛しきって
それで終わり、
そして終わりは、始まり
いろいろなことが
そこから始まる

この”愛する”って
キリスト愛の”愛”のほう、
”慈悲”のことだけれど

慈悲が足りないと思えば思うほど
慈悲も遠ざかる

だから
私自身が慈悲であればいい

私はいつだって慈悲の愛に満たされている
ただそのことを思い出せば良い

みんな本当は覚えているんだから

いつでも心の奥につながる階段を降りていけることを

きらきらと反射し光輝く静かな水面
心の中の聖地
どこにもない、今、ここの NOW-HERE

世俗にまみれ疲弊した愛が
ここでは水晶のようにクリアに生まれ変わり
ダイアモンドのように純粋に光り輝き

明日へ続く生命を創り出していることを

kさんへ

草間彌生の話でいつも盛り上がる私とKさん

自分最高!
私、天才!

このぐらいの勢いも人生には必要なのよねって。

ふと思ったのだけれど、
この”自分最高!”って
強烈な”生命賛歌”じゃない?
水玉賛歌かな?

自分最高!=みんな最高!
私、天才!=みんな天才!

生きてるって素晴らしい!

誰がなんと言おうと
人生は遊び

遊んで遊んで命を輝かそう

オリジナルな自分でいたいね
オリジナルな自分でいないと
カッコつけちゃうし
カッコつけると
本当にカッコ悪いから

つまらない日々を生きてるのも
カッコ悪いけど

2008年の東京で
毎日遊んで楽しく暮らすのだって
難しい

とりあえず
Kさん、これからも一緒に遊びましょう!

2008年8月10日日曜日

私へ

自分を貫いて貫いて
貫き通してみて

そうしてから初めて

大いなる流れのなかに生かされている
生命としての自分を
見つけるのかもしれない

エゴを追求しているかのように見えて
実は調和に向かっている

私は
自分の人生の絵が描けているだろうか

私は、空間に存在する微粒子の一粒であり
その一粒一粒すべてをキャンバスに描き出す
画家でもあり

私が、息を吹き返した瞬間
私の周りの”すべて”も
突然、活き活きと、生き始める

私は
私の顔で笑えているだろうか

recreation とは再創造であり
遊ぶことは 命を取り戻すこと

子供が無心に積み木を積むように

ただ、活き活きと存在する私たちは
キャンバスに描かれる無数のドット

一人一人の命が最高に輝けば
そこには永遠の調和が生まれる

2008年8月4日月曜日

傷つきやすさと繊細さ

傷つきやすいということは、それは一つの才能だと思う。

世の中には、少々のことで傷つかなさそうな人もいて
(本当のところは本人にしか分らないけれど)
そういう人たちと、傷つきやすく繊細な人たちの資質とか才能は、
明らかに違うところにあると思う。

傷つきやすい人たちは、自分が傷つきやすいということを劣等感にしてしまい、
いろいろなことを内面に秘めたまま、悪循環に陥りやすい。

なぜかといえば、一般常識的に、大人は傷つきやすくてはいけない、
ということになっているから。

でも、感情を感じないようにしていると、感情は行き場がなくなり、出口も見失い、
最終的には心も体も凍らせてしまう。感情は、体の感覚と、とても深く繋がっている。

感情を自分から解放してあげる(もしくは自分を感情から解放するのか)には、
思い切りよく、気が済むまで(?)、感じきってあげるしかない、と思う。

子供は皆、とても繊細で傷つきやすく泣いてばかりいるのに、なぜか逞しいのは
そういう術を知っているから?

さらに
感情よりは、理性とか計算とか、アタマを使って生きたほうが一見、得に見える、
そんな時代は終わりつつある。力の強いもの、スピードの速いもの、の限界。

その代わり
今まで力で押さえつけられていたもの、弱く見えていたもの、
スピードの遅いもの、 それらがじわじわと浸透し、台頭し(!?)、
すべてを包み込みはじめている。

朝陽に感動したり、流れる雲に想いを馳せたり、綺麗な夕焼けに切なくなったり、
夜には本を読んで泣いてみたり、たまにはそれだけで一日を終えてみても良い。

自分のなかの ”小さな自分” の存在を感じること。
その ”小さな自分” のいろいろを、
きちんとTake care してあげることが大切だと思う。

傷つきやすさは、きっとダイヤの原石?
かなり言い尽くされてることだけれど、なぜか今日の私の腑に落ちる。

本当のことを言えば、傷つきやすさに執着することは、人間のエゴだとも思う。

ちっぽけな自分の心が何を感じていようが、それとは関係なく
山や海や森や樹や岩や砂は、いつもそのままで美しい。

木々のざわめきに耳を澄ます繊細な感性と、
誰かから予期せぬ悪意をぶつけられて傷つく心、
もしくはあらかじめそうならないように注意深く気を配る神経とは、
なんとなく似ているようで、実は全く違うものなのかもしれない。

自然の恩恵を受けるのは、人間の心だけじゃないし、生きている限りどの瞬間も、
私たちは自然の美しさを味わっているはずで。

どこかの誰かの一言で「傷ついた」と感じる気持ちは、
自分が勝手に創り上げた幻想だったり、
自分にとって都合のよい思考の習慣の結果だったり。

ただ、そういうエゴ的観点(?)で考えれば、

”出来る”自分だけじゃなくて、”出来ない”自分も認めてあげることによって、
劣等感などという無意味な幻想も、自分次第でポジティブなものに変えられる。
諦めないで挑戦し続ければ、人生の可能性は無数にあるってこと、が分る。


自分のことを一人前の大人だと思うのなら、まず最初は、傷つくくことも
傷つかないことも 自分で選択できるようになりたい。
そういう意味で、感情をコントロールする理性は本当の知性。

何が起ころうとも多少のことではジタバタせず、流れに身を任せ、
ただただ内面も外見も平和で幸福に在りたい。

そして次に、周囲の人間や環境に適応してみようとしたいし、
そうしなければいけないから、責任あるから、という理由ではなく、
自分の意思による行動は必ず現実に影響し、物理的な帰結を見る、
というイメージを持って、自ら周囲に働きかけたい。

One step at a day. 少しずつ少しずつ。