2008年5月31日土曜日

熱いコミュニケーション

いつのことだったのか
詳しい日付は覚えていないけれど、
確かとても蒸し暑い夏の夕方だった。
仕事帰りの電車のなかで、目の前に座った若い男性2人組。
手話で会話していた。

手話はもちろんのこと、顔の表情、
舌を出したり引っ込めたりする口の動き、
自分たちのもてる全てを駆使して(!?)会話をしている。

大の大人の男性2人が、
狭い電車の席の隣同士ぴったりくっつき合って、
顔と顔なんかもかなりの至近距離で近づけあって、
口角泡を飛ばす勢いで、本当に一生懸命。

彼らの熱さに、少しだけ冷たく閉ざしかけていた私の心が、
じわ~っと和らいでいくのを感じた。

手話が分ったらいいのに。
一つのサインは、どれくらいの
言葉の意味をカバーしているんだろう?
手話を喋る人って、いつもあんなに全身全霊で熱く会話するの?
とか、聞きたいことは沢山あったけれど。

何のためらいもこだわりもなく自分のことを100%表現する。
すると相手も同じように100%の自分を出してくる。
自分の意見が正しい!と押し付けあうのではなく、
最初から諦めきって相手の意見を全く聞いていないのでもなく、

「わーお!!
やっぱり僕らはち・が・う・んだね!!良かった~!!!」
まるでお互いの意見が違うということを確認して喜ぶかのように、
本当に小さな子供がふざけあっているかのように
何かいきいきとしたものが2人の間を
行き交うのが見えた気がした。

コミュニケーションとは本来こういうものなのね。
一人一人が違う。昨日と今日でも違う。
なんて素晴らしい!だから世界は美しい!

一人一人が必ず持っているはず、何か他人のために出来ること、
それが才能。

熱いコミュニケーション、
少しずつ脱いでいこう、固く作ってしまった自分の殻を。

2008年5月30日金曜日

友人Kさん&Hさんへの感謝を込めて

いつも穏やかで美しく、周囲にさりげない気配りを欠かさない
Kさん&Hさん姉妹。
その優しさは、本当に本当にまさしく
血のにじむような努力の賜物だったのですね。
全ては心の中の出来事かもしれないけれど、
振り向けばすぐ後ろにはドロドロとした悲しみと後悔の底なし沼が、
そして目の前には憎しみの炎が
今にも自分の体を焼き尽くしそうな勢いで燃えている、

それでも、”光”の方向へと歩き続けることを止めなかった、
その強さの理由は、自分たちの強靭な精神力からだったのでしょうか、
それとも深い深い愛で誰かに守られていたからなのでしょうか。

憎しみの炎がどんなに強力か、抗えない魔力を持っているか、
私もよく知っているからこそ、本当に本当に尊敬します。
”闇”と戦うのは、どこぞのヒーローではなく、
今ここに生きている平凡なこの私。
自分の敵は自分だけ、という真理。

大変な苦しみを乗り越えてきた姉妹の、キラキラした優しさに触れ、
今、私の魂がフルフルフルと震えています。

こんなときには必ず思う、
やっぱり人は癒し癒されるために生まれてきているんだなーと。
ぼんやりと眠っていた私の魂を目覚めさせ、行くべき方向へと導いてくれたのは、
嵐の中でも歯を食いしばり進み続けた、誰かの血と汗と涙の結晶。
不思議ですね、いや、やっぱり不思議じゃなく
みんな繋がっているんですね。

重い荷物を一つずつ捨てながら、一日一歩でいい、
明るい陽のさす方向へ近づくこと。
Much Much Love and Respect to K san & H san, 
どうもありがとう!!

Tree of Words

どうか、私がいついかなるときも、私自身でいることが出来ますように。

本当の言葉を喋ることが出来ますように。

私の言葉が神様に届きますように。
神様の言葉が私に届きますように。

”完全な私”でいることこそ、”完全な私”以外の誰か、
例えば地球の裏側に住む会ったこともない誰かへ、
繋がることの出来る一番の近道なのかもしれない。

言の葉は、音であり、光であり、色であり、一つの大いなる命(幹)から
無限に分かれた枝、またその先端の葉、一枚一枚。

夕方5時の渋谷駅西口、家路を急ぐ人、人、人。
雑踏、喧騒、全てがあるようで、何もない。
ここには、私と、私の心に繋がるものが、何もない。

言葉(ことば)=事端(ことば)
事端=事の端々=日常の些細なこと=神は細部に宿る

大いなる命の幹から生まれ出た無限の言の葉たち。
大いなる命の流れのなかに存在する事の端たち。

”言う”ことは、きっと神様との約束、あなたとの約束。

私の本当の言葉をもって、あなたの本当の言葉と繋がりたい。

どうか地球上の全てのヒトが、ありのままの姿で輝けますように。