2008年9月14日日曜日

許されているということ

そう、私たちは 
何もかもを許されてるね

今、初めて気付いたけれど
最初から私たちは
何もかもを許されている

何度も何度も噛み締める
アスファルトを踏みしめる

駅からの道を歩く
缶ビールと満月の夜
鳩尾が開いていく

真の言葉をずっと探してきたけれど
誠の言葉を喋った記憶はない

もちろん
誰かにとって”誠実であろう”とする言葉なんてないけれど

真言ってなあに?
マントラって?

「上っ面の言葉を喋らないで、
本当の言葉を喋って欲しい」

と言いながら、

言葉の力を一番恐れていたのは
私かもしれない

真の言葉をずっと探してきたけれど

なんだ、

私自身が
”それ”を生きてるんじゃない

道理で、どこにも見つからないわけ

詩を書くって、きっと
言葉を忘れること

私たちは
全てを許されている
全てを!

夏の終わり 秋の始まり 満月の夜 

鳩尾からこぼれていく光の曼荼羅と
街灯が溶け合って

ここにもまた一つの聖地が創られている

2 件のコメント:

bangkok さんのコメント...

許されるというのは、どういうことですか?
 マントラや御真言だとすると、日本で言えば真言宗でしょう。ただ彼らまた大乗、上座仏教含め仏教上「許される。」という考えはあるんですか?僕の考えでは、真言の場合梵我一如で許すということはない気がします。僕は、戒名制度など堕落した日本の仏教よりやはり上座仏教の世界観が、ブッタの世界観に近いと思います。自力中心の上座仏教で「許す」という考えは見かけたことがありません。
 前のブログでおっしゃっていた「愛する」ということは、キリスト教の隣人愛のことですね。慈愛という表現は使いませんが、新約のどっかの福音書にある通りアガペー(無償の愛)をキリスト教では最上としています。そして許されるという罪の悔い改めが、あります。でもキリスト教には、魂やこの世での生まれ変わりはない気がします。
 nowhereさんの文章は、とても僕には書けないくらい洗練されていますね。ただ以上のことどうお考えなのですか?

 ・・・ちょっと真面目な投稿ですいませんね。(笑)。kyだったかな?
nowhereさんのお考えが聞きたくなり投稿しました。
 新宿の共産党より。
 

mukanmon さんのコメント...

新宿の共産党さん、コメントありがとうございます。

許される、と書いた意味についてですが、
ほとんど身体的な感覚です。
深~く呼吸できたり、体がリラックスするのを感じたり。

あえて意味を考えてみると、

人生に起こるであろう様々な”変化”を恐れるあまり、無意識的に自分の気持ちにブレーキをかけてしまったり、自分の将来の可能性を否定してしまったりしていた部分があったことに気付いた、という感じでしょうか。

誰も、何も、私を束縛してなかったんだなあ、私って自由だったんだ~♪という気付き。囚われない、というか。

先日、朝日新聞社刊の「三つの鏡」というミヒャエル・エンデ対話集を読みました。そのなかの、河合隼雄さんとの対話において、エンデが”真言”について語っている部分に私はとっても共感しました。

簡単にまとめると

「事実を知ることは大事だが、事実は事実以上のものにはならない。事実が現実たりうるのは、事実に”意味”が与えられる瞬間だけだ。聖書の創世記のなかで、初めに創られたアダムが神から与えられた最初の役目は、万物に名前=意味を付けることだった。人間だけが物事に意味を付けることが出来る。名前を与えるということは、意味を与えるということ。古来、詩人の仕事は、物事に意味を与える、つまり言葉をもう一度見つけ直す、作り直すことだった」

さらに

「仏教にも真言という言葉があるが、ギリシア語、ヘブライ語など古代の言語はすべて真言だった。つまり、音そのものが意味の世界と結びついていた。18世紀のゲーテあたりまでは、言葉が心と直結していた。ところがその後は、抽象的に哲学するには役立つが、事実から意味(私の解釈では、この”意味”とは言葉のいのちであり魂であると思いますが)が抜け落ちてしまった」

という感じです。

私が書いた「真言」とは、上記のような意味と、それからもう一つは、例えば古代から世界各地で、音の反響がとても良い洞窟のなかなどで祈りの儀式が行われてきた、という歴史上の事実などからも分るように、言葉には物事を現実化する力がある(or あった)、というような意味です。

ここまで書いていて思いましたが、「~という意味です」という言い方はとても疲れます。自分が正しい、と主張しているようで。

意味の理解を共有しようとするのは、やっぱり無理があるのかも。

私がどうしても「個」として存在したいのは、そういうわけだからだと思います。

集団で意味の理解を共有しようとすると、必ず権力が生まれるじゃないですか。

でも、生きていくことは、教義の理解ではなく、「自分で意味を付ける」ということ、自分の言葉を喋る、自分自身で在る、ということですよね。

それにしても言葉から命がなくなってしまったのは何故なんでしょうかね?物質主義のせいでしょうか?

科学を「知る」ことと、宗教を「信じる」ことは、同じことですね。

何かを漠然と”疑っている”と、自分の「今日」を生きてはいけないと思います。

私にとっての”真実”は目の前で常に”現実”としてリアルに輝いています。

教義よりも自分を生きていきたいです。